
渋沢栄一はどんな人?

渋沢栄一古希
渋沢史料館所蔵
渋沢栄一の生い立ち
渋沢栄一は、1840年に武蔵国榛沢郡血洗島(現・埼玉県深谷市)で生まれました。生家は藍玉の製造販売を営む裕福な農家でした。父親の市郎右衛門は教育熱心で、栄一が6歳の頃から漢文の手ほどきをし、7歳になると栄一の従兄弟である漢学者・尾高惇忠のもとに通わせて、四書五経などを習わせました。幼い頃から学問に励んだ栄一は、貨幣経済の発達した土地で家業の手伝いをしながら商才を磨いていきます。これが後に栄一を経済人として大きく成長させるもとになります。
渋沢家「中の家」全景
渋沢史料館所蔵
左:渋沢栄一 右上:将軍名代・徳川昭武一行 右下:第一国立銀行
渋沢史料館所蔵
渋沢栄一の青年期
栄一は一橋家の徳川慶喜に仕えます。その頃パリで万国博覧会が開催され、将軍の名代として慶喜の弟である水戸家の徳川昭武のフランス派遣が決まると、栄一も随行員として渡仏を命じられます。これが栄一の人生の一大転機となりました。渡仏後、昭武とともにヨーロッパ諸国を視察し、近代化された社会・文明に驚かされます。フランス経済の仕組み、特に銀行制度や資本主義制度に興味を示し、それらを学んで帰国します。その後、栄一は明治政府に出仕し、大蔵省の役人となります。そこでは、貨幣制度の改革、度量衡の統一、租税制度の改正、郵便制度の確立、鉄道の敷設、官庁建設など、数多くの重要な政策に関わりました。ところが大蔵卿の大久保利通と対立し、大蔵省を去ります。民間人となった栄一は、日本で初めての銀行である第一国立銀行(現・みずほ銀行)を設立して頭取となります。
近代日本経済の父 渋沢栄一
栄一は「道徳経済合一説」を唱え、第一国立銀行をはじめ約500もの企業の設立に関わったと言われています。また約600もの社会公共事業、福祉・教育機関の支援と民間外交にも熱心に取り組みました。国益のために日本近代化を進めたその数々の功績から、「近代日本経済の父」「日本資本主義の父」と称されます。そんな栄一は北海道との関わりも数多く、全国で唯一開拓に携わったとされるのが、1919年に北海道の清水町で熊牛農場として設立した「十勝開墾株式会社」です。
左:渋沢栄一(髷・帯刀) 右:渋沢栄一(撮影年次未詳)
渋沢史料館所蔵
社章「りうご」マーク
もともとは渋沢家の家業・藍玉の商標。渋沢家の家印で澁澤倉庫部、澁澤倉庫となっても社章として用いられています。「ちぎり」とも言っていましたが、鼓を立てて横から見た姿に似ているなどの理由から、「りうご」と呼ばれるようになったとされています。

渋沢栄一 北海道ゆかりの地
第60作大河ドラマ「青天を衝け」の主人公や、2024年に新紙幣で1万円札の肖像にもなった渋沢栄一は、北海道でも数々の功績をつくっています。ここでは、北海道内12市町村の渋沢栄一にゆかりのある地を、その地域の特色と一緒にご紹介していきます。
札幌市 to 渋沢栄一
栄一が関与した事業
北海道拓殖銀行
明治以降開拓が進みつつあった北海道の産業開発と振興に寄与するため、北海道拓殖銀行法により1900年特殊銀行として北海道拓殖銀行が創立されました。渋沢栄一は設立委員を務めました。
国立国会図書館所蔵
札幌麦酒株式会社 大日本麦酒株式会社
渋沢栄一は岩崎弥之助らと共に1885年ジャパン・ブリュワリーの設立に出資しました。また浅野総一郎らと共に大倉組が払下げを受けた札幌麦酒醸造場を買収して1887年札幌麦酒会社を開業しました。
北海道製麻株式会社 帝国製麻株式会社
明治期に日本各地に設立された製麻会社は日清戦争後の不況を乗り切るために合同し、1907年帝国製麻が設立されました。渋沢栄一は、北海道、下野、帝国の各製麻会社に関わりました。
北海道瓦斯株式会社
公益事業遂行のため発足した東京会議所は、1873年瓦斯掛を設けてガス事業に乗り出し、翌年初めて東京にガス灯が点灯しました。渋沢栄一は、会議所が東京府に移管され更にガス事業が民間に払い下げられた後も、事業に深く関わりました。北海道瓦斯株式会社へは、渋沢栄一は発起人、株主として関わっています。
財団法人埼玉武曠寮
渋沢栄一は北海道視察旅行の中で、札幌の埼玉県人会に寄付を行っています。この寄付を機会に、埼玉県人会は札幌農学校(現在の北海道大学の前身)在学埼玉県学生寄宿寮の設立に着手しました。また、渋沢栄一はその後も寄付を行っています。
財団法人バチェラー学園後援会
アイヌへの伝道、アイヌ文化およびアイヌ語の研究、困窮するアイヌの救済に尽力したイギリス人聖公会宣教師、ジョン・バチェラーはアイヌ民族に中学校以上の教育を受けさせるために、寄宿舎「バチェラー学園」を創設しました。渋沢栄一と徳川義親・新渡戸稲造らは事業の後援会の設立を発起し、渋沢栄一は顧問を務めました。
栄一の旅の足跡
1908年8月19日 北海道庁/旅亭山形屋<午餐>/遊園地に開かれたる札幌畜産共進会/水産陳列所/豊平館<演説>
1908年8月20日 五番館/農科大学/幾代楼<歓迎会>
1908年8月21日 雁来製線所/大日本麦酒会社の麦芽製造所、製瓶所/帝国製麻会社札幌工場/公園内西ノ宮楼<饗宴>
札幌市
のこと

札幌市は北海道の政治、経済、文化の中心地です。日本で4番目の人口を擁し、およそ80年に渡り道政を担った北海道旧本庁舎や札幌市時計台、札幌農学校として開学した北海道大学など歴史的な建物が今も残っています。ビルや住宅が建ち並ぶ「都市」と郊外に広がる「自然」の要素を併せ持ち、「都市と自然の調和」が札幌の特徴です。また、北海道の物流の中心であり、新鮮な青果物や魚介類が道内各地から集まり豊かな食文化を生み出しています。ラーメンやジンギスカン、スープカレーが有名ですが、SNSで話題の創作フレンチや進化系スイーツも札幌ならではの文化です。
1,121.26k㎡
1,968,265人(2024年10月1日現在)
札幌市の気候は日本海型気候で、夏はさわやか、冬は積雪寒冷を特徴とし、四季の移り変わりが鮮明です。4〜6月は晴天の日が多くさわやかな緑に包まれ、花が集中して咲き乱れます。6月下旬から日中暑い日もありますが、本州地方のような梅雨は見られません。7、8月は平均気温が20℃を超える盛夏となります。10月には紅葉が始まり、最低気温が0℃近くまで下がることもあります。10月下旬には初雪が見られ、12月上旬には根雪となります。12月〜2月の冬季は、最深積雪は約1m、ひと冬の降雪量は約5mにも達します。3月に入ると寒気も緩み始め春分のころには平均気温が0℃を超えます。
引用元:札幌市公式HP
小樽市 to 渋沢栄一
栄一が関与した事業
澁澤倉庫株式会社
北海道で初めて鉄道が敷かれ、港も持っていた小樽は物流拠点として北海道発展の要となっていました。渋沢栄一は明治末期に来樽し、完成したばかりの長大な防波堤や石炭の出荷施設を視察し、急激に発展する小樽の姿を目の当たりにしています。澁澤倉庫として初の地方進出地に小樽が選ばれ、ニシン漁で財を成した実業家・遠藤又兵衛が建てた倉庫を1915年に入手しました。倉庫は今でも昔の面影を残す北運河に面した場所にあり、当時の石壁や木造の骨組みが残る貴重な建物「旧澁澤倉庫」は、1991年に小樽市の歴史的建造物に指定されています。
第二十国立銀行
渋沢栄一は近代的銀行制度創設の準備を進め、1873年第一国立銀行を設立しました。また、1897年には不動産を担保に長期資金を供給する日本勧業銀行を、1902年には動産担保の貸付を行う日本興業銀行の設立に関わりました。第二十国立銀行へは、創立指導、援助という形で渋沢栄一が関わっています。
北海道炭礦鉄道株式会社
1889年8月9日、堀基を創立委員長とする北海道炭礦鉄道会社は、政府に会社創立と鉄道部資本利子補給等の特許を出願しました。この出願は同年11月18日に許可され、同社は12月11日から営業を開始しています。渋沢栄一は発起人の一人に加わり、出願認可後の11月20日に同社常議員となり、以後1893年9月まで務めています。
小樽木材株式会社
渋沢栄一は経営不振に陥っていた青森県の三本木共立開墾会社の株式を1888年に引受け事業再建に尽力します。同社から株主に割譲された土地で牧場を経営し、三本木渋沢農場としました。また北海道十勝地方開拓のため1897年十勝開墾を設立しました。小樽木材株式会社には、設立発起人会議長、相談役として関わっています。
栄一の旅の足跡
1908年8月16日 小樽港/開陽亭<投宿>
1908年8月17日 <小蒸気船乗船>/小樽港二期工事予定地<一覧>/防波堤<一覧>/高島郡の水産試験所<一覧>【→手宮→】/日本郵船会社支店<休憩>/<帰宿・午餐>/<招宴出席・謝詞>
1908年8月17日 <上陸>/炭坑会社の桟橋及貯炭所/蝦夷人の岩石に刻んだ文字の跡<一覧>
1908年8月18日 小樽二十銀行支店<訓示>/商品陳列会/商業会議所/水産共進会<水族館等>/小樽木材会社工場/開陽亭<歓迎会・演説>
小樽市
のこと

小樽市は、北海道西海岸のほぼ中央、後志地方の東側に位置し、札幌市など4市町村に接しています。東西約36km、南北約20kmで、市街地の一方が日本海に面し、他の三方を山々に囲まれた坂の多いまちです。海岸線は約69kmで、その中央には天然の良港である小樽港があり、西側の勇壮な海岸は「ニセコ積丹小樽海岸国定公園」に指定されています。気候は寒暖の差が小さい海洋性で住みやすく、春は桜と新緑、夏はゴルフやマリンレジャー、秋は紅葉、冬はスキーと、四季を通じて豊かな自然を満喫できます。
243.83k㎡(2024年10月1日現在)
105,254人(2024年7月末現在)
小樽市の気候は北海道の中では比較的温暖な場所に位置しています。東京都と比べると平均気温がすべて低く1カ月ずれている感じです。桜の満開は大体ゴールデンウィークの頃で、夏は30℃を超える日もありますが、お盆を過ぎると朝晩は一気に涼しくなり、11月下旬から3月までは長い冬になります。
引用元:小樽市公式HP
十勝清水町 to 渋沢栄一
栄一が関与した事業
十勝開墾株式会社
熊牛に最初の集団移民を募集したのは、十勝開墾合資会社でした。最初の入植者が入地する前年の1897年、男爵・渋沢栄一らが十勝川沿いに3,500万坪の貸付予定存置を出願し、許可されたのがきっかけです。渋沢栄一の従兄、渋沢喜作は貸付予定存置を出願すると同時に、渡邊勘三郎に命じて農学士町村金弥と測量技量技師山本信の両名を現地に派遣し、地形地質調査と土地の選定に従事させました。その結果、土地利用の有望性を確かめることができ、1898年に資本金100万円をもって合資会社を設立し、開墾へスタートを切りました。農場長として町村金弥が就任しましたが、翌年辞任したため小田信樹が二代目農場長となりました。こうして開墾の途に着きましたが、経営は困難を極め事業計画は思うように進みませんでした。そのため出資者の脱退が相次ぎ、創業3年後には渋沢栄一、渋沢喜作、渋沢篤二、大倉喜八郎、植村澄三郎、和久伊兵衛の6名だけが残りました。そのため事業を縮小せざるを得ず、資本金を19万円に減らし、貸付地の一部を返還すると同時に、移民奨励を目的に1902年より小作人規定を改め、移民に土地を譲渡する方法に切り替えました。その結果、次第に小作人が増えていきましたが、1904年に日露戦争が始まり、働き手の成年男子の出征が相次ぎ、再び事業遂行に困難を来しました。そこで移民募集を強化し、どうにか開墾事業を継続することができました。1916年には組織を変更し、株式会社となりました。
十勝開墾合資会社農場事務所(明治31年)
渋沢史料館所蔵
十勝開墾合資会社牧場
渋沢史料館所蔵
十勝開墾合資会社牧場
渋沢史料館所蔵
栄一の旅の足跡
1908年8月23日 清水駅/十勝農場/小田農場長の家<泊>
清水町
のこと

清水町の開拓は、1898年に渋沢栄一によって設立された十勝開墾合資会社が熊牛農場を開設したことに始まります。十勝平野の西部に位置し、「国道38号」と「国道274号」の2本の国道が交差しており、さらには、道東自動車道のICを有する、まさに道東の玄関口とも呼べる町であり、豊かな大地が育む畑作と酪農が盛んな町です。
402.25k㎡(2024年10月1日現在)
8,810人(2024年7月末現在)
十勝清水町の気候は、大陸性気候で夏は高温で冬は低温となります。年間を通して晴天日数が多く、湿度も比較的低いのが特徴です。降水量は年間平均1,130mm程となっています。
引用元:清水町公式HP
十勝 清水町は
渋沢栄一ゆかりの地として、各種記念事業を行なっています。事業内容については随時更新していますので、皆様の事業への参加をお待ちしています。
詳しくは、十勝清水町公式サイト
石狩市 to 渋沢栄一
栄一が関与した事業
渋沢史料館所蔵
石狩石炭株式会社
渋沢栄一は、石炭の将来性に目をつけた浅野総一郎の提案を受け磐城地方の炭礦経営を計画し、1883年磐城炭礦社を起こし会長に就任しました。この他、北海道の石狩石炭、山口県の長門無煙炭礦など各地の炭礦経営に関わりました。石狩石炭株式会社へは、顧問という形で関わっています。
国立国会図書館所蔵
北海道炭礦鉄道株式会社
北海道の石炭資源開発と鉄道運輸を目的として、北海道庁理事官堀基を創立委員長に1889年北海道炭礦鉄道会社が設立されました。渋沢栄一は発起人に加わり、後に常議員を務め同社の発展に尽力しました。
石狩市
のこと

石狩市は札幌市の北側に隣接し、江戸時代初期には河口部流域が交易を行う範囲に指定されたことや交通の要所であったことから、西蝦夷地の中心地として重要な役割を果たしてきました。2005年には旧厚田村と旧浜益村と合併し、近年は、石狩湾新港をベースに国際的な文化・経済の拠点としてめざましい発展を遂げ、北海道内最大級の工業団地があるまちです。また、札幌市中心部から車で30分ほどにも関わらず、アウトドアや自然を満喫でき、石狩鍋を筆頭に海と山の幸を使ったグルメや日本海に沈む絶景の夕日など、ドライブ観光におすすめのスポットがたくさんあります。
722.33k㎡(2024年10月1日現在)
57,297人(2024年7月末現在)
石狩市は北海道の中でも温暖で四季の変化に富み、台風の影響も極めて少ないのが特徴です。対馬海流の影響による海洋性気候で、春から夏、秋にかけて過ごしやすい日が続きます。また、冬期間の気温も−10℃以下になることは少なく積雪も12〜3月頃までで、最深積雪は120cm前後です。
引用元:石狩市公式HP
函館市 to 渋沢栄一
栄一が関与した事業
『実利実益 北海道案内』より
函館馬車鉄道株式会社
小樽・函館間の鉄道として1895年発起された北海道鉄道は、渋沢栄一らが発起人に加わり1896年函樽鉄道と改称し再請願、1900年認可され北海道鉄道と再改称して設立されました。また、1897年設立の函館馬車鉄道の株主となりました。函館馬車鉄道は、東京以北で初めての馬車鉄道であり、今でも函館市電の車庫に記念碑を見ることができます。
『函館市社会事業要覧』より
函館慈恵院
函館慈恵院は、1900年、仲山與七・上田大法・ 寺井四郎兵衛の3氏が、北海道開拓の志に敗れ行き倒れた行旅病者や度重なる大火で生活の途を失い失意に暮れる老・幼・病の人々を救わんとして創設したことに始まります。渋沢栄一は1908年に函館慈恵院を訪問し、寄付を行なっています。
函館船渠株式会社
明治維新後北海道でも西洋型船の製造が奨励され、1878年より函館の平田文右衛門らは船渠及び製鉄所設立を計画。長年の運動の結果渋沢栄一ら東京・大阪の有力実業家の援助を得、政府補助金の下附も受けて1896年函館船渠が設立されました。初期の経営危機を渋沢栄一らの尽力で乗り越え、第一次大戦期を経て発展しました。
函館土地合資会社
渋沢栄一、中野武営らは東京市郊外で田園都市経営の土地会社を設立する計画を進め、1916年田園都市株式会社を設立しました。また、益田孝らと設立した耕牧舎の資産を引継ぎ、1928年に別荘分譲の仙石原地所を設立しました。渋沢栄一は、函館土地合資会社へ出資の形で関わっています。
栄一の旅の足跡
1908年8月12日 公園近くの勝田楼<投宿>
1908年8月13日 函館公園/五稜郭/人造肥料会社工場<訓戒>/函館慈恵院<児童に訓諭>
1908年8月14日 宝小学校<函館経済倶楽部会員等に演説>/函館船渠会社/二十銀行支店及日本郵船会社支店等の焼失後仮家屋<一覧>/函館公園内共同館<宴会>
1908年8月15日 大沼公園/紅葉館<午餐>/区役所<歓迎会>
1908年8月31日 勝田<投宿>
函館市
のこと

1859年の箱館開港より、西洋文化をいち早く取り入れた独特のモダンでレトロな雰囲気は、今の函館市にそのまま残っています。国内初の西洋式城郭として1864(元治元)年に完成した五稜郭は、幕末から明治維新にかけて戊辰戦争最後の戦いである「箱館戦争」の舞台となり、日本の歴史のターニングポイントとして、北海道唯一の特別史跡に指定されています。 春は約1,500本の桜が咲き乱れ、初夏はフジ棚の花が訪れる人を爽やかに迎えます。秋は紅葉が落ち着いた雰囲気を演出し、冬はイルミネーションイベント「五稜星の夢(ほしのゆめ)」の舞台になっています。また、函館市周辺の海域は暖流と寒流が交わる豊かな漁場で、朝市には新鮮な海鮮丼が味わえる店が軒を連ねます。函館市は年間500万人が訪れる歴史・文化・芸術・が香る観光都市でもあります。
677.87k㎡(2024年10月1日現在)
237,790人(2024年7月末現在)
函館市は北海道の南部に位置し、北海道の中でも雪が少なく夏も過ごしやすいのが特徴です。年間の平均気温は9.4℃、積雪が50cm以上ある日は4日程度です。また、真夏日は4日程度、7~8月の平均気温は20℃前後で、湿度も低いので、夏に過ごしやすいのも特徴です。
引用元:石狩市公式HP
根室町 to 渋沢栄一
栄一が関与した事業
明治公園のサイロ
明治公園は、明治初期創設の旧国立開拓使根室牧畜場の跡地です。3本あるサイロは1930年代、渋沢栄一が創立した合資会社が牧場を経営していたころに建てられました。
明治公園のサイロ
文化庁 日本遺産ポータルサイトより
根室市
のこと

北海道の最東端に位置し、手つかずの自然が多く残る希少なまちです。また、太平洋とオホーツク海の豊かな漁場と新鮮な海の幸に恵まれ、四季を通して旬の味覚を楽しむことができます。根室市の開拓は元禄年間に始まり、1869年に開拓使松本判官が属僚130人を連れ来往し、根室市の基礎を築きました。1957年、根室町と和田村が合併して根室市が誕生し、沿岸漁業資源の増養殖をはじめ水産資源の高次加工などの振興策を積極的に行っています。
512.72k㎡(2024年10月1日現在)
27,213人(2024年7月末現在)
根室市は、春〜夏にかけて海霧が多発し、気温が低いですが秋は好天に恵まれます。11月以降は北西の季節風が強く、2月には流氷に覆われることもあります。
引用元:根室市公式HP
その他の市町村to渋沢栄一
森町
旅の足跡
1908年8月31日 森駅<午餐>
368.79k㎡(2024年10月1日現在)
13,764人(2024年6月末現在)
森町の気候は、盛夏でも30℃を越えることはまれで、厳冬でも-15℃まで下がることは珍しく、年平均気温7〜8℃で積雪も少なく、北海道でも温暖な地といえます。
渡島半島の空碧く波静かな内浦湾と緑豊かな秀峰駒ケ岳の周囲に位置する森町・砂原町。古くから文化・地理的にも結びつきが強かった2町が、両町の一体的なまちづくりと将来の発展のため「森町・砂原町合併協議会」を設置し、平成17年4月1日に、あたらしい町「森町(もりまち)」が誕生しました。漁業・農業が盛んな町であり、南は北斗市と七飯町、東は鹿部町、南西は渡島山脈によって厚沢部町に、西は八雲町にそれぞれ接しています。
引用元:森町公式HP
登別市
旅の足跡
1908年8月29日 登別温泉/滝本楼<投宿>
212.21k㎡(2024年10月1日現在)
43,913人(2024年7月末現在)
登別市は、7・8月の盛夏でも25℃を越える日は少なく快適に過ごせます。冬は一日の内の気温の変化が少なく、最低気温も-10℃以下になることがほとんどありません。また、登別市は北海道の中では雪が少ない地域となっています。
登別市は日本を代表する温泉リゾート地で、国内外から毎年約400万人もの観光客を迎えています。9種類もの温泉が湧き出す登別温泉は「温泉のデパート」と呼ばれています。また、山峡の名湯として名高いカルルス温泉は、北海道で第一号の「国民保養温泉地」に指定され、多くの方が保養に訪れます。支笏洞爺国立公園の中核に位置し、登別温泉を抱える北海道有数の観光都市であるとともに、本道で最も進んだ重工業地帯の室蘭工業圏の一翼として発展してきました。
引用元:登別市公式HP・登別市移住特設HP
夕張市
旅の足跡
1908年8月28日 北海炭坑会社各工場/石狩炭坑会社/足立氏の社宅<投宿>
763.2k㎡(2024年10月1日現在)
6,286人(2024年7月末現在)
山や丘陵に囲まれた地形的特徴から、四季の変化や昼夜の気温の変化が大きく、また、風はまわりの山々にさえぎられて弱められています。降水量は本道の平均的な量で積雪は近年少なめです。
1874年アメリカ人鉱山地質学者ベンジャミン・スミス・ライマンの探検隊が夕張川上流の炭鉱地質を調査、その後1888年に道庁の技師坂市太郎が志幌加別川の上流で石炭の大露頭を発見したことから「炭鉱の街夕張」の歴史が始まりました。1891年の炭鉱開始以来、炭鉱の街として栄え、1943年には市制が施行されました。一時は大小24の鉱山、人口12万人を数えましたが、1965年代に入って次々に閉山。「炭鉱の街夕張」としての歴史に幕を閉じました。現在、石炭の歴史村にある「石炭博物館」「炭鉱生活館」「模擬鉱」などに、炭鉱の街夕張の歴史や生活が再現されています。また、ゆうばり国際冒険・ファンタスティック映画祭をはじめとする多彩なイベント、全国的に知られる銘産夕張メロンやそれを原料とした特産品開発に力を入れています。
引用元:夕張市公式HP
釧路市
旅の足跡
1908年8月26日 喜望楼<歓迎会・演説>/旅亭虎屋<投宿>
1,363.26k㎡(2024年10月1日現在)
155,516人(2024年7月末現在)
釧路市は、寒流の影響を受け冷涼です。冬の寒さが厳しい反面、積雪は多くありません。5〜8月にかけては、海霧が発生しやすく、日照時間が少ないため夏の気温は20℃前後となります。9・10月にかけては晴天が続き、11月以降の冬期間は快晴が多く乾燥した日が続きます。降水量は年間1,000mm前後で、降雪は11月下旬〜4月上旬にかけて見られ、最深積雪は30cm程度です。
釧路市は、北海道の東部、太平洋岸に位置し、「釧路湿原」「阿寒摩周」の二つの国立公園をはじめとする雄大な自然に恵まれた街であり、東北海道の中核・拠点都市として社会、経済、文化の中心的な機能を担っています。酪農を主力とする豊かな農業生産、豊富な森林資源を有する林業、そして国内有数の水揚げ量を誇る水産業など、日本の食料基地といえる地域です。安全・安心で良質な食料の供給体制の形成に努めるとともに、この恵みを与えてくれる自然環境の保全や環境調和型の循環社会実現への取り組みを進めています。また、大規模な食品・製薬工場や製紙工場の他、全国唯一の石炭鉱業所が操業しており地域経済の核となっています。
引用元:釧路市公式HP
旭川市
旅の足跡
1908年8月22日 神居古潭/三浦屋<投宿>/燐寸軸木製造所/神谷伝兵衛等の経営するアルコール製造所
1908年8月27日 三浦屋<投宿>
747.66k㎡(2024年10月1日現在)
317,757人(2024年7月末現在)
旭川市は、最も暖かい8月の平均気温が21.2℃、最も低い1月の平均気温が-7℃となっており、その差(年較差)は28.2℃に達し、北海道内の都市の中でも寒暖差が大きく、四季の変化に富んだ街と言えます。また、1日の温度差も大きいことが、旭川市の特色の一つとなっています。
古くからアイヌの人々の営みと開拓の歴史によって、今日の旭川市の基礎が築かれました。以来、交通の要衝・物流の集積地として発展し、現在は、北北海道の拠点都市として、医療福祉施設、教育施設、文化施設、公的機関などの都市機能が充実しています。また産業では、食糧供給に重要な役割を担う稲作などの農業や、食料品、紙パルプなどの製造業、旭川家具をはじめとした木工、機械金属などのものづくり産業が集積しているほか、北北海道の交通・物流の拠点として、卸・小売業、サービス業などが発展しています。近年は、航空路線の充実により、外国人観光客が増加しており、全国的に知られる旭山動物園や雪質が良いスキー場などに、国内外から年間500万人を超える観光客が訪れています。
引用元:旭川市公式HP
室蘭市
旅の足跡
1908年8月30日 岩礦会社<講話>/湾内<巡覧>/岩礦会社の家
81.01k㎡(2024年10月1日現在)
75,390人(2024年7月末現在)
室蘭市は、1月の平均気温が-1.8℃、最低気温平均値は-4℃と本州内陸部に位置する長野市とほぼ同じです。北西寄りの風が多く、冬期間の風が強いのが特徴です。海洋性の気候を強く受けており、夏季は冷涼、冬は温暖です。
「室蘭」の語源は、アイヌ語の「モ・ルエラニ」という言葉で“小さな・下り路”という意味です。名前の表す通り坂道の多いまちで、室蘭港を中心にすり鉢状の地形をしています。慶長年間(1600年ころ)松前藩が、アイヌの人たちと交易をするため、絵鞆場所(えともばしょ)を開き、運上屋を置いたのが始まりとされ、港は本州と北海道を結ぶ海陸交通の要衝として発展してきました。現在では、港を囲むように、日本製鉄株式会社 、株式会社日本製鋼所などの工場群が立地しており、北海道を代表する重化学工業・港湾都市となっています。また最近では、夜の工場群の景観は「工場夜景」として注目を集め、室蘭港に架かる白鳥大橋のライトアップとともに、宝石箱の中にいるような夜景を演出します。
引用元:国土交通省北海道開発局 室蘭開発建設部
室蘭の観光情報サイト おっと!むろらん
